荻窪教会のあゆみ

座談会 荻窪教会草創期当時の思い出を語る


- 見出し -
1節 2節 3節 4節

全体の目次へ


出席者

石野 兼吉・石野 朝子・島田 重五郎
中村 文子・池田 トヨ の皆さん


司会

石野 洋 さん
座談会の様子
↑上の画像をクリックすると
別ウインドウで大きな画像が
表示されます。

6人の発起人で杉並支部発足

司会の
石野 洋さん


司会 荻窪新殿堂の落成を記念しまして荻窪教会の前身である「杉並支部」草創期当時のお話を賜りたく、お集まり頂き誠にありがとうございました。それではまず最古参の石野兼吉さんから、当時の様子をお聞かせ下さい。

石野(兼) 荻窪教会の前身であります杉並支部について、ちょっと調べさせて頂きましたところ、昭和21年9月29日に2代教祖様がPLを立教され、22年1月1日に東京支部が設立されたんですね。今の東京中央教会で場所も同じでした。これがきっかけで東京に「PLの灯」がついたわけです。余り記憶にはないんですが杉並支部は6人の発起人によって出来た支部で、確か東京では4番目の支部と聞いております。6人のうち5人の名前は存じあげており、当時の支部は杉並区清水町というところで、23年1月1日“産声”をあげたようです。私は27年の正式の入教ですから、当時の様子は詳しくは知りません。そして25年頃ですか、ここにおられる方もご存知のようにJR阿佐ヶ谷の線路際に木造平家建ての「杉並支部」を建設したようです。不思議にも10年位経つと、建物も古くなったり、ある事情などにより、現在の荻窪教会の場所に、木造の1部2階建ての支部を移転、新築、34年6月27日「荻窪支部」と名称を変更するとともに、2代教祖様と影身祖様、それに御木白日祖様のご巡教を頂いたわけです。(WEB版編者注:2代教祖様と影身祖様のご巡教は32年4月17日のようです

司会 過去をみますと、“10年周期”で建物が新しくなり、発展してきたようですね。

石野(兼) 奇しくもそうなっているんですね、32年頃と思うのですが、環状8号線の道路拡幅のため、敷地の一部を提供しなくてはならないため、鉄骨3階の殿堂を建設したわけです(WEB版編集者注:32年は「木造の新築」が正しいようです)。今度は20年経ちましたので、全会員さんの誠により立派な新殿堂を建設させて頂きました。木造の1部2階建の時は右田先生、鉄骨3階建の時は崎山先生が教会長でした。面白いことにも建物が出来上る頃になると、教会長先生が代るんですね。それはともかくとして私が入会した27年に、武蔵野支部が杉並支部から分離しましたが、いろいろな事情によって再び杉並支部に統合され、32年6月17日「荻窪教会」としてスタートしたわけです(WEB版編集者注:32年4月17日にご巡教をいただいての落成式があったそうですので、もっと早くに荻窪教会としてスタートしていたと言えるようです)。

司会 杉並支部設立の運びに至るエピソードや思い出、知っていることがありましたらお聞かせ下さい。

中村 私の主人中村和市は25年に杉並支部に入教、私も翌26年入教しました。余り古いので記憶が薄れてしまいました。

島田 重五郎さん

島田 私は石野(兼)さんと同じの27年入教です。確か支部の隣に大工さんが住んでいたのを記憶しています。

石野(朝) 支部の角の大工さんは久野さんじゃないですか。支部の建物を建ててくれましたね。もちろんPL会員でした。

司会 線路際だったもんですから、列車が通ると騒音で体験談が聞こえなくなる始末。教話もよく聞こえなかったんですね。実際に石野(兼)さんも体験されましたね。

石野(兼) 当時、支部の建物は線路際から5メートル位しか離れておらず、しかも電車は2分30秒間隔で運転されていました。上下が行き交う時などは大変な騒音となり先生の教話など全然耳に入りませんでした。新しく赴任してきた先生などは、その電車騒音に驚いて教話にならないことがたびたびありましたね。

司会 杉並支部になる前の様子をご存じの方は、今いるんですか。


古道具屋の2階借りる

石野 朝子さん


石野(朝) 現在の教会の裏の方に古道具屋があって、そこの2階を借りていたという話を聞きました。

石野(兼) そうなんですね。当時のことをよく知っているのは、入院中の鈴木あきさんだけで、その鈴木さん宅の前が古道具屋だったようです。全国奉仕員連盟会長の竹下さんは、その頃鈴木あきさん宅で大変お世話になったそうです。

司会 当時の人達は故人になられたり、また記録にも残していませんから、詳しく語るのは無理かと思いますので、杉並支部時代のエピソードや思い出に話を戻しましょう。

見出しへ       全体の目次へ

感謝祭の終わったあとよく余興やる

中村 感謝祭の終ったあとは、よく余興をやりましたね。石野兼吉さんなんかは、若かったので、いつも先頭に立ってやっていたのが印象的でした。

島田 森田奉仕員会長がおられた時には朝詣りが一段と盛んでしたね。

中村 文子さん


中村 日曜日の朝詣りには、キャラメルで子供を集めて、PL子供の誓い言葉をいわせたり、本当に子供達はよくきていましたね。

司会 その頃から子供の誓い言葉があったんですね。

中村 ありました。でも石野兼吉さんが子供達の面倒をみながら、熱心に指導され私の主人がそれを補佐する形でやっていました。


青年部長の百々瀬さんが強い印象

島田 青年部長だった百々瀬さんも強い印象に残る1人ですね。

司会 短歌が上手でした。数年前鉄道博物館の館長を勇退したと聞いておりますが。ところで当時の朝詣りの様子をもう少しお聞かせ下さい。

石野(兼) 当時の早献(早朝献身)隊長といったら、何といっても中村さんのご主人でしたね。朝献は午前5時から始まりますので、私は4時2分の省線(現JR)に乗らないと間に合わない。

司会 私の場合4時7分(中野駅)でしたね。5時から始まって5時半まで朝献しそれから朝詣りでした。何だか早献の方が一生懸命でしたかね。


早献に熱が入る

島田 そうなんです。早献の方にものすごく熱が入ってました。教会内外の清掃が中心で、阿佐ヶ谷駅近くまでほうきを持って、きれいに掃きました。

司会 いつも何人位集まっていましたかね。

石野(兼) 早献には20人から25人、朝詣り10人位参加して、35人から40人の方々が集まっていました。

中村 朝詣りのあと教話を頂き、6時半頃終了していました。確かお金を出して朝食を頂いていたような記憶がしますね。お勤めの人は、そこで食事を頂いて、会社へ出勤していたように思います。

司会 毎日食事が出ていたような気がしましたね。

石野(兼) ただし後半には、このようなことはなくなりました。

島田 早献は長く続きましたね。朝詣り制度がなくなる40年代前半まで、故人の青木金作さんは、1日も欠かさず早献朝詣りしていました。


早朝献身で身と心の修行

石野 兼吉さん


石野(兼) 朝詣りは、早献しなかったらやめた方がいいと、当時いわれました。早朝献身して、身と心の修行をさせてもらっているんだなァというところに、感じさせられるものがありました。

見出しへ       全体の目次へ


司会 杉並支部から荻窪教会へかわる頃青年部活動も盛んでしたね。今、国立教会にいる小沼君やらが中心で…。

石野(朝) 杉並支部から荻窪教会へ移行する頃、青年部は荻窪駅の公衆トイレの清掃を行っていました。

司会 私はよく宿直させて頂き、その当時青年部の連中が酒を飲みに行こうとすると、「PLの青年部がお酒を飲みに行くとは何事だ」と婦人会の方に怒られましたよ。そしたらお酒が大好きな百々瀬青年部長というのが、「それはお酒飲みに行ったのではなく、新友紹介に行った」といいまして1週間毎日そのお店へ掃除に行き、拝み倒して、店のおかみさんを入会させた、とうエピソードがございますね。その時かなりお灸をすえられ、今と時代が随分違うなあと感じますね。つまり純粋さ、きびしさというものが強い印象として残ります。

中村 あの当時は、若い先生が多かったんですね。それも短期間で交代されました。婦人会ではその都度食事のお世話をさせて頂きました。

司会 武蔵野支部が杉並支部に統合されて、荻窪教会になったことは、先に触れましたが、いろいろな事情背景があったんでしょうね。

石野(兼) 港間聞いておりますが、結果的にはそれがよかったといえましょう。杉並支部の建物も老朽化していましたからね。

司会 杉並支部が今のところに移転した理由は何だったんですか。

石野(兼) ここにいる中村さん宅の近くの角地に土地を買収し、そこに「杉並支部建設用地」の看板を立てたんです。

中村 それは初耳ですね。

石野(兼) ところが建設予定地内のその看板が、倒れてしまったんです。さっそくみおしえ願うと提出したところ、他を探して移転しなさいと下付されたわけです。それで今の場所を選んだということです。

石野(朝) 荻窪支部の1部2階を建てる前、女性の井元先生が、「一生懸命献金すると、立派な先生も来て頂けるし2階も建ちます」と素晴らしい教話をして下さいました。その教話には迫力があり、未亡人だった服部さんという方が、自分の土地を売って多額な献金をなさったんですね。そのおかげで1部2階建ての教会が建設されたのです。

司会 当時、荻窪支部用地は2ヶ所ほど選んで、買収交渉をしたようでしたね。

石野(兼) みおしえが下付されたので、現在の場所と未だに駐車場になっている近くの土地を物色したわけです。

石野(朝) 今の駐車場になっているところは広くていい。駅からも近い。だが値段が高い。しかも何としても売らないんです。仕方がないから現場所は環8に面し、角地でもあり、裏は小学校でもあるので、少々唄を歌って騒いでもいいだろうということで決めた次第です。


環8拡幅で敷地半分とられる

司会 荻窪支部はその後教団が支部を教会名称に統一したため「荻窪教会」になりましたね。そのあとですか、環8道路の拡幅のため、せっかく建てた教会の敷地を半分ほどとられました。でもいろいろな思い出がありますね。


善福寺川の増水で床上浸水

石野(兼) 私が一番印象に残るのは、夏夕立がくると、道路を横切って流れている善福寺川が増水して、床上浸水することがたびたびなんです。ですから教会へ電話をかけ、すぐ“たたみ”を上げるよう連絡したこともあります。

司会 私も知っているんですが、今の教会前に1メートル位の溝川がありまして、これと善福寺川が合流する、だから増水した場合、ぶつかり合って一層水かさが増すわけです。

石野(朝) 私達は長靴はいて、それでも朝詣りしましたよ。

島田 当時、御木優先生が教会長でしてトイレの中に入った水を、みんなでかい出しているのを覚えています。

石野(兼) その後立派な道路ができ、善福寺川の河川工事、改修も完成したため、水の心配がなくなりました。

池田 トヨさん


池田 荻窪という地名の通り、窪地で土地が低かったんですね。教会前の川が深くて、婦人会で献身していたら「川に子供が落ちたァ」というから、飛んでいったら、私の息子でびっくりしました。だから深くて大変だったのです。御木優先生の時、3回洪水に合い「先生はタタミ上げにきたみたいですね」と冗談をいいました。でも半年位で替わられましたね。

石野(朝) 伊東幸子さんといつも一緒に朝詣りし、教えはありがたいねと、喜ばせて頂きました。今でもそれは忘れません。


見出しへ       全体の目次へ

司会 教勢も盛り上がったと思うんですが…。

石野(兼) 荻窪教会は1升の升しか入らないとよくいわれた。国立や田無が分離独立しても、升の中身は減りもしない。当時の先生から今度は2升の升をつくろう、といわれたもんですよ。

ご巡教くださった2代教祖様
↑上の画像をクリックすると
別ウインドウで大きな画像が
表示されます。

石野(朝) 1部2階建の教会が完成しての落成式に2代教祖様のご巡教を賜り、ご親講頂いたのが思い出されます。「この教会は、これから先に奥へ向かって発展する」というお言葉です。その頃、当地は発展する気配がなかったんですが、その後段々そうなってきたんですね。なるほど教主様は、先のことがこんなによくお分かりになるのかな、と今でもそんなお言葉は忘れません。


三多摩布教に誠を

石野(兼) 2代教祖様からお言葉を頂いたので、三多摩布教に誠をしようということになりました。そして「三多摩布教委員」を設けようとしたわけです。当時、荻窪から甲府まで、PLの教会は全然ない、だから三多摩開発を何とかしようと考えたのですが諸般の事情により実現してませんでした。

石野(朝) 34、5年頃、荻窪教会から国立、田無が分離していきましたがすぐ同じ位の人数が入会してきましたね。

石野(兼) 根分けをすると元が肥えるね

司会 一杯になったものを分けていくと、活性化するんでしょうね。

石野(兼) 荻窪教会の特徴は、過去40年間に、まず“ボス”がいなかったこと、何ごとやるにも“スロー”。スローだけれどある一時期を除いて、期日までには必ず達成していた。

島田 ボスがいなということに関連して富尾増一先生がよく国鉄(JR)の1等車に乗る客よりも、3等車に乗る庶民の方々を多数集めて欲しいと、いっておられました。

司会 環八道路の拡幅で百坪ほどあった土地が50坪近く、半分になりましたが、当時のエピソードをお伺いしたい。

石野(朝) 43年に鉄骨3階建を建設するに当り隣りの田中のおばあちゃんには大変お世話になりましたね。電気や水をひいて頂き、本当に助かりました。うちの主人は、毎日建築現場へ行って見届けていましたね。

司会 新しくなる教会も素晴らしいけれど、それをつくってくれた故人になった人の徳というものを感謝せざるを得ません。私は、おやじ(石野基一さん)がどの位のことをしてくれたのか、したのかは余り記憶にありませんが…。

石野(兼) 昨春鉄骨3階建の建物を取り壊す時、一部の人からこの教会はガレージみたいだとか、いろいろなことをいわれましたよ。ところがその教会が出来た時は、PLでは東京で1番だといわれたんですね。当時東京で3階建以上の建物というと上野教会位ですよ。今は上野教会は地上9階建に新築されましたが…。だから荻窪教会の建物を見学にきたり、ゾーンで会合があると、必ず荻窪教会へきました。

司会 種々お話を聞かせて頂きましたが荻窪教会の特性というか個性というか、下町にないエリート意識というんですか、からだの信仰より頭の信仰が先行しているような気がしますね。でも結びの力はあります。他の下町あたりの教会へいくとこんな信仰のあり方があるのかと、教えられます。

島田 会員さんの間で、転勤族の方が多いこともあるんじゃないかしら。

司会 大変貴重なお時間を頂き、誠にありがとうございました。(星野正子さんのご好意で座談会場を提供して頂きました)




見出しへ

- 荻窪教会のあゆみ 目次 -
表紙 PL宣言 祝辞 各会々長メッセージ 荻窪教会新殿堂落成式祭文
荻窪教会沿革史・年表 右田次男先生の懐かしい日記
荻窪教会長時代のよき想い出 座談会「荻窪教会草創期を語る」
写真で見る教会史 新殿堂落成までの歩み 新殿堂の概要
編集後記